つ ん    ・トップへ戻る  ・1つ上に戻る


I

 事の起こりは金曜の夕方、人もまばらになりかけた学生実験室だった。既に学生の半分は実験を終えて帰宅し(中にはデートやら麻雀やらに行ったやつらもいたのだろうけど)、残っていたのも、大半は一緒にメシを食う相手や、麻雀の面子の片割れが実験を終えるのを待っていた連中で、この時まだ実験をやっていたのは7・8人しかいなかった。

 その7・8人の中に僕が入っていたのは、これは毎度の事。どうも僕は、あまり要領の良くないタイプの人間で、実験ともなるといつも最後まで残ってしまう。しかしまあ、色々努力のかいあって、この時には何とか一番最後の段階まで辿り着いていた。
 
 

つん・・・

カッシャ〜ン!!


 僕の手をすべり落ちたビーカーは、実験台の上ではずんで、黄色い液体をあたりに撒き散らした。5時間! 昼の1時から延々5時間もかかった実験は、最後の滴定−ものの5分とはかからないってのに−と言う所まで来て水泡に帰した。

「あ〜あ」「やったね」

 まだ残っていた友人達は一斉に、気の毒そうな、そして半分は愉快そうな視線を僕に投げかけ、その中を、実験監督をしていた、助手の筒井さんがやってきて、ニコニコしながら、あまりの事に呆然としている僕の右肩をたたいて言った。

「小峰君、やったねえ。ま、やっちまったもんはしょうがない。もうこんな時間だし、今日の所はとりあえずこれで終わりにして、この実験は明日の午後にもう一度やってよ」

明日の午後にもう一度!?

 今日の5時間の努力がムダなり、おまけに明日(土曜日だぜ、おい)の午後までつぶれる。そんな馬鹿なとの抗議はもちろん通じず、逆にお説教を食らう始末。そしてその最中、緒方美登利がクスクス笑いながら、僕にチラッと視線を送って帰って行った。


II

土曜日はいい天気だった。この実験室のある建物の向かいはテニスコートになっているから、、土曜の午後ともなれば、窓からはボールを打つ音や、女の子の歓声なんかが飛び込んで来る。そんなものを聞きながら、人気のないガランとした実験室で、1人空しく試験管とニラメッコしてると、我ながら情けなくて涙が出そうだった。

 あ〜あ、やっぱり大学受ける時、理系なんかやめて文系にしとくんだったなあ。文系なら、実験なんかないしヒマだしさ。経済行った小野なんか、ホントいつ見てもヒマそうだもんなあ。いいよなあ。ふんだ、どーせ僕は理系なんかにゃ向いてませんよ。

 だいたい実験なんてもんは、みんなでワイワイやるからヤル気も出ようと言うもので、1人でやれってのが無理な話。まして、こんな気分じゃなおさら。そこで、筒井さんが「終わったら見せに来るように」と言って研究室に引き上げたのをこれ幸いと、とにかく思いっきり手を抜いて、4時前には実験を終わらせてしまった。

「早かったねえ」「まぁ、2度目ですから」

なんてやりとりの後、ニヤニヤする筒井さんから確認のハンコをもあらい、「レポートは来週中だからね」の声を背に研究室を出る。

 やれやれ、やっと終わったよ。さて、もうこんな時間だし、これからどうしようかなぁ。しかしひどい目にあったもんだ。何だってこの僕が、こんな目にあわなくちゃならないんだ。だいたい、考えてみれば全部あの緒方美登利が悪いんじゃないか。あそこで緒方が・・・。なのにあいつときたら「ごめんなさい」の一言も言わずに帰りやがって。なんて女だ、まったく。

 研究室から実験室へと荷物を取りに戻る廊下、昨日の事をあれこれ考えながら歩いているうち、段々と腹が立ってきて、つい力まかせにドアを開けてしまった。「ガチャーン」と、自分でも驚く程の音が厚い壁にこだまして、そうしてその音に振り向く影があった。

あれ、小峰君実験は?

そう、その影の主は、この事件の張本人、緒方美登利だった。

もう、終わったよ

なーんだ、つまんない。折角もう一度つっついてあげようと思ったのに

たく、なんちゅう女だ。ひょっとして、昨日のことをあやまりにでも来たのか、なんて、一瞬でも思った僕が甘かった。こいつがそんな可愛らしい事をするわけがない。

 そう、僕は極度のくすぐったがり屋である。首筋やわき腹に限らず、手だろうと足だろうと、ちょいと刺激を加えられると飛び上がってしまう。おかげでサークルのコンパでは、後輩にまでくすぐられて転げ回る始末。しかしまあ、酒の席くらいならそれも許そう。僕は心が広いのだ。

 だが、この緒方美登利は、それをあたり構わずやるのである。この前など、昼下がりの退屈な講義中、僕が気持ち良く昼寝をしている所をつっついてくれたもんだから、思わず「ヒッ!」と叫んで立ち上がってしまい、教授にはニラまれるわ友人達には爆笑されるわでサンザンだった。そしてまた昨日・・・。

そう、もう終わっちゃたんだ。私がわざわざ来てあげたって言うのに

あのなあ、誰のおかげでこのオレが、こんな時間にこんな場所にいなくちゃならなくなったのか、お前分かってんのか!

怒らない怒らない、別にデートが潰れた訳じゃないんでしょ。下宿で1人でヒマを持て余しているよりマシじゃない

 うっ、痛い処を。

だいたい、そんな調子じゃ彼女が出来たって、くすぐったくて腕も組めないじゃない

 余計なお世話だ!

だから私が、彼女が出来ても大丈夫なように、こうして訓練してあげてるのよ

・・・・・

 さてと、実験が終わってるんじゃ、こうしていても仕方ないし、帰ろうかな。じゃ、小峰君、いい週末をね。バイバーイ」
 


 何でこうなるんだ。被害者は僕なんだぞ。なのに何で、僕がこんな風に言われなくちゃならないんだ。何で僕がこんなに悔しい思いをして、緒方の奴があんなに涼しい顔をしていられるんだ。不合理だ。世の中間違ってる。くっそ〜。とてもじゃないが、このまま引き下がったんじゃ、腹の虫が収まらん。何か、何かやり返さねば・・・
 
 

つ ん

きゃあぁぁ!!

緒方美登利がこれ程見事なノプラノの持ち主だとは知らなかった。いや、そんな事はどうでもいい、人の事をつっついて喜んでいる当の本人が、実はくすぐったがり屋だったなんてことも、この際どうでも構わない。とにかく、僕は見たのだ。僕にわき腹をつっつかれて全身を硬直させている緒方美登利に、見事なシッポが生えているのを。


III

 喫茶「ダ・カーポ」に着いたのは、待合せ時刻よりも30分も早かった。王子なんて所に行くのは初めてなので、遅れちゃまずいと思って下宿を出たのが早過ぎたらしい。さすがにまだ、緒方美登利は来ていない。コーヒーを頼み、窓の外を行くチンチン電車と新幹線と言う奇妙な組合せを眺めながら、つらつらと昨日の事を思い返してみる。

 確かに、確かにあれはシッポだった。見間違いなんかじゃない。だからこそ緒方はあんなに慌てて、まるで逃げるようにあの場を走り去ったんじゃないか。だけど何で・・・。まあいい、もうすぐ分かることさ。王子か。ウチの学生とは縁のない街だな。密談にはもってこいだ。

 約束の時間に5分遅れて、緒方美登利が駆け込んで来た。いつもと違って、やたらとめかし込んでいる。まるでデートにでも出掛けるような格好だな。色仕掛けのつもりなのかね。そりゃまあ、これで黙って座っててくれるんなら、それなりに可愛い事は認めるけどね。口さえ開かなけりゃさ。

一昨日はごめんなさい。

ウェートレスが注文を取り終わると、緒方がしおらしく切り出した。

まさか、あんな風になるなんて思わなかったから。本当にごめんなさい。

おやおや、美登利ちゃんの口からこんな言葉が聞けるとはね。いつもがいつもだけに、かえって怖いな。

まあ、いいさ。済んだ事だし。それに、おかげでおたくの弱点も分かったしね

エヘ、そうなんだ。実は私も、結構わき腹とか弱いんだ。

それでいて、僕の事つっついていたわけ。

だって、小峰君って、反応が可愛いんだもの。

可愛いねえ。

 そうして僕は、適当に話を合わせながら、目では彼女の動きを追っていた。う〜ん、こうして見てる限りは、別に普通の女の子だけどなあ。そりゃあ、こうしてオシャレしておしとやかにされると、これがいつものあの緒方美登利とは、とても思えないけどね。しかし、こ〜ゆ〜風に平気で化けるから、女って怖いんだよな。女にダマされる男が後を絶たない訳だ。

 そうして、あるいは僕もダマされてしまって、あれは夢だったと言う事にして、このまま彼女と一時のTea Timeを楽しめば良かったのかも知れない。いや、多分そうなのだろう。けど、いくら実験が下手でも、でも僕はやっぱり、根本の所で理系人間なんだよね。

ウェートレスが緒方のミルクティを運んできた。

一瞬、会話が途切れる。

なあ、緒方

なあに?

お互い、カマの掛け合いはやめにしないか。

どう・・・いうこと?

緒方は別に、僕に謝るために、わざわざこんな所へ僕を呼び出した訳じゃないだろ。

そんな、私は・・・

昨日の事を僕がどう思っているか、夢か現実か、それを確かめに来たんだろ。違うかい?

 返事花は無かった。彼女の顔から微笑みが消え、うつむいて堅く口を閉ざしている。その、今にも泣き出しそうな表情を見ていると、何か彼女にひどく悪い事をしたような気がして、やっと一矢を報いたと言うのに、何故か素直には喜べなかった。

長い沈黙の後、緒方が口を開いた。
 

 

見たの?

ああ


IV

 王子駅の横に広がる飛鳥山公園を二人で歩きながら、美登利はぽつりぽつりと僕に話してくれた。

私ね、たぬきなの。

たぬき!?

うん、こうやって人間に化けてるけどね。信じられない?

そ、そんなことないよ。

狸か。昨日の事がなけりゃ、とても信じないだろうな。

人間は、物理や科学の法則が宇宙を支配してると思ってるけど、でもそれが全てじゃないわ。もっと別の、もっと違う力も存在する。ただ、人間が気付いていないだけ。そしてその力を使えば・・・

人間に化けるのなんて造作ないってわけか。

昔は、人間の中にもこの力(人間は魔法って呼んでるけど)の存在に気付いていた人達もいたんだけどね。でも、時代が下るにつれて、人間達は魔法を忘れて行った。伝説だけを残して・・・。だけど、その方が良かったのかも知れないな。今の科学ですら意のままに扱い切れない人間の手に魔法があったら、この星が吹っ飛んでたかも知れないもの。

地球が吹っ飛ぶ!?

自然が内包している巨大な力を引き出すこと、それが魔法なの。だから使い方を間違えると・・・

なるほどね。確かに人間には、魔法を使う資格はなさそうだな。

今はね。でも、いつかは人間にも、魔法を使いこなせる日が来ると思うし、その時こそ人間は、時間と空間を支配できるんじゃないかな。

どうかなぁ。人間って、そんなに賢いかね。

人間が本当に自然を見つめることが出来れば、魔法は自分から姿を現わすはずよ。魔法なんて、そんなに難しいもんじゃないもの。

 美登利が1枚のハッパを拾って呪文を唱えると、それはお札になった。手触りといい印刷といい、どう見ても本物だ。

大切なのは、あらゆる物をありのままに受け入れる事なのにね。

展望台の上に立って、足元に広がる灰色の街を見つめながら、そうつぶやく美登利の横顔は、やっぱり1人の女の子だった。

これで納得した?

ああ。

人間同士が化かし合っている世の中だ。女の子に化けた狸がいたっていいじゃないか。美登利の横顔を見つめながら、僕はそんなことを考えていた。

だけどさ、その狸が、何で人間の大学なんかに
通っているわけ?

一人前の狸になるには、人間に化けて人間の世界で生活してこなくちゃならないの。義務教育みたいなものね。

義務教育だって。じゃ、美登利の他にも。

別に私達だけがやってるわけじゃないわ。狐だってやってるわよ。

げげっ。僕は思わず、クラスやサークルの連中の顔を思い浮かべた。ひょっとすると、この中にもまだ・・・。

知らなかった。

それはそうよ。トップ・シークレットだもの。こんな事がバレたら、人間がパニック起こしちゃう。それにまだ、人間に魔法の存在を知らせる時じゃないし。

だけど、そんな重要な事、僕にしゃべっちゃっていいのかい?

だって・・・、仕方ないじゃない。それに・・・

それに?

そろそろ夕暮れが、あたりを支配しようとしていた


V


 


  月曜の昼休み、食堂でウドンを食っていると、緒方がうれしそうな顔をしてやって来た。

昨日あれから研究してね、絶対にシッポを出さない化け方を見つけたんだ。これで私の弱点消滅。

やれやれ、昨日のあのしおらしさ、あれは一体何だったのかね。

でも、わき腹が弱いのはそのままだろ。

子峰君ほどじゃないもんね。相打ちになればこっちの勝ち。

わっ、バカバカ、よせっ!

つん!






挿絵を担当してくれたNanami嬢に感謝を

そして

この世に住む 全ての不思議な者たちに祝福を