トラブル・トラベル
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1995年11月 ヒューストン/ホビー
 ダラス・フォートワース(以下「DFW」)行きの飛行機は、ヒューストン/ホビー空港の滑走路の端までたどり着いた所で、ピクリとも動かなくなってしまった。雷雲が飛行場の近くにあるため、それが立ち去るまで1時間以上の待ち。DFWに着き、広大なターミナルビルを全力で成田行きのカウンタまで走った我々が見たものは、ゲートから離れて行くDC11だった。結局、この日は航空会社が用意してくれた空港近くのホテル泊まり。
1996年9月 DFW
 AA60便は定刻にDFW着。入国を済ませ、ターンテーブル前で荷物が出て来るのを待つ。ふと、同行の某君に目をやり、「あれ、荷物は?」「荷物!? あっ!!!」。自分達の荷物ならまだいい。彼が機内に忘れたのは、某社からハンドキャリーの依頼を受け、成田空港で受け取った代物である。自分も彼も、すぅ〜と血の気が引いていくのが分かる。

 慌ててバゲッジクレームへ行き、事情を話す。しかし電話で確認して貰った所、機内に忘れ物はないと言う。「機内に持ち込んでスチュワーデスに預けたのは間違いないので、無くなるはずはない」、と強硬に主張すると、「あれ、これですかね?」。それそれ。もう届いていたのか。あ〜、良かった。


1998年3月 フロリダ上空
 乗り継ぎ便に空席がなかったため、DFWで5時間待たされて乗ったオーランド便。4時間のフライトもようやく終わりに近づいてきた。家を出てから間もなく24時間。やはりフロリダは遠い。窓の下は一面の雲海。その所々で、フラッシュを焚いたように稲光が光っている。やがて飛行機は高度を落とし、窓の外は白い霧に閉ざされ、そして雷光が霧を青白く妖しく輝かせる。

 かなり揺れたけど、何とか無事にタッチダウン。時刻は既に午前0時過ぎ。レンタカーを借り、ココビーチへの道を急ぐ。再び雷雲がやって来た。ワイパーを最速にしても尚、前が全く見えない程の豪雨。ミッションの未来を暗示する様…


1999年1月 女満別
 確かに吹雪いている。でも、ANAはちゃんと降りてきてお客を乗せて飛んで行ったのに、何故JASは着陸できずに千歳に引き返すんだぁぁぁ! ともあれ、カウンタに並ぶ。年明けとあってそうそう空きはない。明日の釧路発なら席があると言われたけど、釧路も霧で欠航率が高いしなあ。

 結局、払い戻しを受け、バスで北見へ。ここから特急で札幌へ出、夜行バスに乗り継いで函館。更に特急と新幹線での帰宅(所要20時間)。かつて国鉄完乗なんて事をやっていたからこそ出来る芸当で、素人さんが真似してはいけません。


1999年7月 DFW
 成田からのAA60便は定刻にDFWに着いた。ヒューストン/ホビー行きの出発まで2時間弱。空港内のワインバーでテキサスワインを楽しむ。さて、そろそろゲートに行くかと思い、ふと発着便のモニタを見ると、我々が乗るべき便の出発時刻とゲートが変更になっている。悪い予感…

 結局、この日はダラス近辺で雷雲が暴れ回ったため、DFWのダイヤは滅茶苦茶になってしまった。何度かの航空会社との交渉の末、午前0時過ぎに出るヒューストン/インターコンチ(以下「IAF」)空港行きの座席をゲット。今度はレンタカー屋に行って、レンタカーのピックアップ場所をホビーからIAFに変更。

 IAFに着いたのは午前1時半。当然荷物は着いていない。深夜のベルト8を、宿に向かってひた走る。明日は何を着りゃいいんだ。


1999年9月 NY/ニューアーク
 コンチネンタルの777は定刻にニューアークに着いた。入国審査の行列でかなり時間を食ったので、カナダ・ハリファクス行きのゲートに急ぐ。しかし、ゲートで待っていたものは「キャンセル(欠航)」。カナダ東部は天気が悪いらしい。結局この日は、航空会社が提供してくれたホテル泊まり。やれやれ。

 翌朝、目が覚めると豪雨。超大型のハリケーンが接近しているらしい。大丈夫かいな。空港で昼前のハリファクス行きを押さえ、航空会社にもらったチケットで朝食を食べる。それからトイレに行くと、さっき窓口にいたカナダ航空のオッサンとバッタリ。「おい、お前の便は欠航になったぞ!」「えっ!?」「今ならトロント行きがある。来い!!」 オッサンに案内されるまま空港内を走り、何とか時間ギリギリでトロント行きに潜り込んだ。

 しかし、滑走路の端まで来て、飛行機は止まってしまった。風も出て来て、雨が窓を激しく叩く。30分、40分、1時間が過ぎた頃、ようやく離陸。やれやれ、やっとカナダに行ける。ところが離陸数分後、いきなりエンジン音がしなくなった。高度計付きの時計は、高度がむしろ下がっている事を告げている。最早これまでか… 30秒後、再びエンジンが点火し、高度が上昇し始めた。はぁ〜。大きなため息を1つ。30分後、雲が切れ、更に30分後、トロントは晴れていた。


2000年2月 シカゴ
 ユナイテッドの747は定刻にシカゴに着いた。冬のシカゴは欠航率が高いと聞いていたのでラッキー。ところがハンツビル行きの乗り継ぎ便のカウンターに行くと、キャンセルとの事。途中に発達した積乱雲があり、プロペラ機では飛べないとか。結局、アトランタ経由となった(こちらはジェット)。ハンツビル着13時の予定が18時となったが、まあ着いて良かった。レンタカーを借りてホテルへ。空港を出た時にはポツポツだった雨が、ホテルに着いた時には土砂降り。実はこの時、寒冷前線の通過で記録に残る暴風雨が吹き荒れていたのだった。19時着の予定だったNASDAのT副主任と某社のK氏を乗せた飛行機はハンツビルに着陸する事が出来ず、着陸場所を求めて彷徨った末、何とかメンフィスに降りたとか。この日、2人はハンツビルに着けなかった。
2000年2月 ハンツビル
 空港に着いてレンタカーを返し、ふと出発便のモニタを見上げると、「Chicago: Cancel」、あうっ! 昨夜のテレビで北東部は大荒れと言っていたので嫌な予感はあったけど、やっぱりシカゴ空港は閉鎖かい。でも、カウンタのおばちゃんが色々トライしてくれ、デルタのアトランタ−成田便をゲットしてくれた。おばちゃんに感謝。
2000年6月 アトランタ
 30分遅れでゲートを離れたデルタの747は、しかし立ち止まってしまった。「左右の重量バランスが悪いので、左翼の燃料タンクから右翼のタンクへ燃料を移す」とのこと。しかし1時間以上が過ぎてから、重量オーバーでこのままでは離陸できないので、一旦ゲートに戻るとの事。オイオイオイ。

 結局、燃料を抜いてポートランドまで飛び、そこで給油して成田を目指す事になった。燃料を抜く作業に1時間半。その間、乗客はターミナルビルへ。時刻は既に13時過ぎ。腹が減った。人間、腹が減ると怒りっぽくなる。航空会社も察知したのか、機内食用のサンドイッチとソフトドリンクを出してきた。さすがにアルコールは出なかった。

 定刻より4時間以上遅れてやっと離陸。水平飛行に移ると、すぐ機内食。腹が一杯になったため、眠気が襲う。目が覚めるとポートランド到着30分前。山脈の向こうがすぐ空港なので、飛行機はロッキーのピークとピークの間を縫うように降りていく。ポートランドで給油、最離陸。結局、成田着は6時間遅れ。天候で遅れたのならともかく、完全な人災だもんなあ。お詫びに何かオマケでもくれるかと思ったけど、何も無かった。以後、デルタは決して乗るまいと心に誓う灯台であった。