函館本線46レ
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 21時22分、函館行き鈍行46列車は、満員の乗客を乗せて、小雪舞う札幌を後にした。

 小樽着22:09。10分停車。社内を埋めていた人影が動き出す。網棚にあふれていた荷物が消え、空間に満ちていた話し声が遠ざかる。函館行きの夜行とは言え、乗客のほとんどは、札幌から小へと戻る人々なのだ。まして今夜は金曜。すすきのでちょっと一杯引っかけた人々が、少し遅くなってしまった家路を急ぐ。後に残るのは、わずかの乗客と、そして古ぼけた蛍光灯から漏れてくる、淡い光のみ。北の寒気を遮る二重窓の内側で、むせ返るよような暖気の中、発車の時刻を待つ。

 だが、その刻が近づくにつれ、車内には再び喧騒が戻ってくる。今度は、小樽から家へと帰る人の群れ・・・。

 小樽。人口18万。北海道第5の都市。札幌の西35kmに位置し、かつては港町として大いに栄えたこの街も、今では140万にまで膨れ上った札幌の陰で、長いまどろみを続けている。そしてこの46レは、その小樽を出る最後の列車だ。これに続く列車は、明日の朝までない。終列車。その独特のけだるさが車内を支配する。22:19、小樽発。席を埋めた人々からは、しかし話し声も途切れがち。

 塩谷・蘭島・余市・然別・銀山・小沢。3両の客車から少しづつお客を降ろし、少しづつ身軽になりながら、46レはゆるゆると坂を登ってゆく。倶知安着23:55。残っていた乗客も大半がここで下車し、最早3両の客車には、十数名を残すのみ。かつては数十両の蒸気機関車が翼を休めた、広大な倶知安の操車場も、その鉄路は赤く錆び、それらを覆う純白の雪だけが、遥かなる時代を今に告げている。ここから46レの、本当の旅が始まる。その昔、C62重連の牽く急行ニセコが死闘を挑んだ函館峠。羊蹄山とニセコアンヌプリの間の細い回廊を、DD51の重連が駆け上がる。外は始原の闇。窓から漏れる明りだけが、降る雪を照らす。

 かつて、札幌−函館間には2本の夜行列車が走っていた。急行すずらん、そしてこの46レである。函館へ、そして東京へと向かう客を詰め込んで、夜の闇を駆けた2本の夜行。だが、すずらんは既に無く、46レも夏のシーズンを除けば、倶知安から先は空気を運んでいるに過ぎない。東京へ向かう人々は、とっくに飛行機に移ってしまったし、札幌−東京を列車で行こうと言う閑人達も、札幌−函館は20:15発の特急北斗を選ぶ。函館着0:19。津軽海峡を青函連絡線の夜行で渡り、盛岡から新幹線に乗り継げば、東京着は10:14。46レでは、どうあがいても東京着17:34。函館へ行く人も同じ。20:15の北斗か、さもなければ23:55の夜行バス。46レよりも100円多く払うだけで、新型バスのデラックスなシートで眠れる。何も100円ケチッて46レの古ぼけたボックスに沈まなくとも・・・。

 そう、札幌発の他の3本の夜行−稚内行きの利尻・網走行きの大雪・釧路行きのまりも−が、急行でありながら特急用の寝台と座席車を使用しているのに対し、この46レは、今だに30年も昔に作られた、古ぼけた客車なのである。スハフ61、オハ45。蒸気機関車と共に生き、彼等が消えた後も、ディーゼル機関車の後ろで余生を送ってきた旧型客車。しかしその旧客達も、近ごろでは50系の赤い新型客車に追われ、駅構内の片隅で、ポツンと立ち尽くしている姿を見る事が多くなってしまった。廃車となり、解体を待つだけの老雄の姿。手動のドア。油の染み込んだ木製の床。開かない窓(*)。木のブラインド。上野発奥羽本線回り青森行き。上野発上越線回り秋田行き。東京発大阪行き。京都発出雲市行き。門司港発西鹿児島行き。名古屋発紀勢本線回り天王寺行き。小樽発釧路行き。etc.etc.。かつて全国を駆け巡り、そして今は亡き旧客夜行の数々。人々を乗せ、そして時代を乗せて、夜の闇を照らした一条の光。時代は移り、彼等の役目は終わりを告げた。だが、ここ函館本線には、凍てつく闇の中、最後の旧客夜行が躍動している。

 長万部着1:41。14分停車。2両のDD51のうち1両を切り離す。DD51をもってすれば、函館峠と言えど3両の客車と3両の荷物車を牽く位簡単なのだが、そうすると暖房用の蒸気が足らなくなってしまうので、ここまで重連で来たのだ。

 凍ったホームを歩いて、切り離されたDD51を見に行く。雪が相変わらず舞う中、DD51からは真っ白い蒸気の柱が、天に向かって一直線に伸びている。気温は−10℃。寒くなってきたので、自動販売機でコーヒーを買って、客車に戻る。車内は20℃。二重窓が白く曇る。他の人々は皆、ボックスを占領して沈没中。僕もそろそろ寝るとしよう。

 森着2:53、24分停車。大沼着4:06、24分停車。札幌−函館280kmは、夜行列車を設定するには近すぎるのである。まして札幌発21:22とあっては、途中これだけ道草を食っても、函館着は5時になる。例の夜行バスは22:55発の6:30着。すすきのでゆっくり飲んでから乗れば、函館に着いて、朝食をとってフロに入って(函館の八地頭温泉は、朝6時半からやっている)、ちょうど出社時間。これだけをとっても、46レが夜行バスにかなうはずもないのだが、とは言え4時に函館着ともつかず、46レは道草を食いながら進む。暖かく、しかもガラガラの車内。眠りを誘う単調な振動。車内に充満するけだるさ。旅の本当の楽しさってのは、実はこういう所にあるのだが、今の人々は、見掛けだけの快適さに引かれる。いくらキレイでリクライニングするったって、窮屈なバスのシートで足を縮めて寝るよりは、客車のボックスを占領するほうが、よっぽどいいと思うんだけどね。飛行機だってそう。確かに早くて快適かも知れないけど、その分失うものも大きい。鈍行とバスとを乗り継いでたどり着いた、下北半島最北端大間崎。僕はそこで、津軽海峡の彼方に浮かぶ北海道を初めて見た時の感動を、決して忘れないだろう。そしてこの感動は、飛行機なんぞで北海道に出掛けるような人種には、決して味わえまい。

 大沼発4:22。倶知安−大沼間は快速だった46レだが、大沼からはまた各駅停車。仁山・渡島大野・七飯・大中山・桔梗・五陵郭・函館。函館着は5:04。札幌を出てから7時間42分。海の香を感じつつ改札口へ。

 函館の朝は早い。連絡船の夜行便が着く4時半には、もう朝市が開き始める。次の青森行きの連絡船は7:20。ゆっくりと朝市を冷やかしても、十分に間に合う。そしてこれが、空気輸送の46レが生き残っている秘密でもある。実は46レのお客とは、人間ではなく荷物なのである。

 朝、道内各地を発った荷物・郵便物は、夜までに札幌に着き、そして46レの3両の荷物車に乗せられる。翌朝函館に着いた荷物車は、連絡船に積み込まれる訳だが、人間と違って荷物車の積み込みには時間がかかる。46レの函館着5:04と、次の連絡船の函館発7:20のタイムラグの理由はここにある。ちなみにこの後は、青森着11:15。青森発12:38の急行荷物列車に組み込まれて、更に東北各地からの荷物を積みながら南下。終着横浜羽沢は3日目の3:02。朝のうちに郵便局に回されて、午前中の配達となる。

 だが、トラックそして航空便全盛の現在、46レの荷物輸送がいつまで続くか、全く見当はつかない。そして、荷物輸送が消えた時、46レも又消える。そしてその日は、そう遠くはあるまい。多くのローカル線同様、旧客夜行も又、昔語りの中に消えて行く。しかし何も言うまい。それが時代の流れだ。今は間に合った幸福だけを味わうとしよう。古い時代の旅人の、最後の生き残りとして、彼等を見送る役目を果たすとしよう。
 
 

1986.2.15   遥かなる北海道を思いつつ



*別に固定されている訳ではなく、壊れて開かないだけ。