ファンタジィと世界

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−世 界−

 ファンタジィを大別すると、三つの種類に分けられるでしょう。「メアリー・ポピンズ」のように、我々の住む世界の中に奇妙な人や物が現われる話。「ナルニア国ものがたり」のように、我々の住む人間が奇妙な世界に入り込んでしまうお話。そして「指輪物語」のような、我々の住む世界とは異なる世界で展開される物語です。

 これら三つの間には、ある共通項がみられます。それは、「我々が住む世界」とは異なる世界の存在です。ナルニア国や中つ国。メアリー・ポピンズにしても、彼女がやって来たのは、やはり「この世ならぬ世界」からでありましょう。これらの世界は空想の産物であるとは言え、現実の世界(宇宙と言ってもよいかも知れません)と対抗し得るだけの存在感を読者たる我々に与えてくれます。これこそが、ファンタジィと呼ばれているものたちの本質であると、僕は考えています。あるいは逆の見方をすれば、ファンタジィとは「我々の住むこの世界とは異なる世界」を新たに創り上げる事であるとも言えましょう。

 人が物語を作る場合、人物設定や時代設定、場面設定や舞台設定に関しては、それがどんな無理で非現実的と思われるものであっても構いませんが(もちろん、そこから導かれるドラマに矛盾があってはなりませんが)、とは言っても常識や事実のオリからは脱出できません。物語は現実の世界と言う名の器の外へは、脱出出来ないからです。が、普通の容器ではこぼれてしまうような飲み物も、容器の形を変えてやればこぼれなくなります。我々の世界とは「異なる」「新しい」世界においては、現実の世界の常識や知識、法則や理などの鎖は全て無意味です。そしてこの世界では、物語の作者は他の何物にも制約されない自由な発想で、物語を進めてゆく事が出来ます。何と素晴しい事でしょう(当然、新しい世界には新しい世界なりの制約が存在します。ただしその制約は作者自身の手になるものですから、それを物語に影響を与えない形にしておくことが可能です。まあ、「魔術師のおい」や「さいごの戦い」のように、自らの手で自らを縛ってしまった例もありますが。こう言う作品を読むのは悲しいことです)。

 ただ残念な事に、自分の力だけで一つの世界、一つの物語を創り上げる事の出来る人は、あまり多くはありません。世の大多数の人々は、固有の世界を創り上げる喜びを、自分の力だけでは味わえないのです。しかし、ファンタジィを読む行為を通じて疑似体験することは出来ます。ファンタジィを読むと言う事は、作者の頭の中にある世界を、読者が自分の頭の中に再び造ろうとする事ですが、読者の側から見れば作品は単なる刺激にすぎず、実際に世界を創ったのは自分であるかのような錯覚を覚えるからです。また、作者として見れば、折角創った自分の世界を、より多くの人に知ってもらいたいと思うのは、ほとんど本能的な欲求でしょう。

 ファンタジィの作品群がこの世に存在しているのは、こうした作者側と読者側の欲求が一致した結果です。そうしてその裏にあるものは、自由自在に飛び回ろうとする人間の魂そのものでありましょう。ファンタジィとは、人間の創造力が動き回るには小さすぎる「この世界」から、必然的に生じたものなのです。
 
 

−ファンタジィと児童文学−

 現在のファンタジィの起源はイギリス児童文学にあるそうですが、何せ不勉強ゆえ細かい所までは知りません。ただ昔がどうであったにせよ、現代においてはファンタジィが子供達だけのものではない事は、現実が証明してくれています。又ことさらにファンタジィを大人用と子供用に分けて考えるのも無意味な事です。確かに子供向けとして書かれた物語の中にファンタジィが多く見られるのは事実ですが、子供が読んで面白いと思うものは大人が読んでも面白いはずですし、子供向けではなく書かれた本を子供達が読む例も、いくらでもあります。真のファンタジィ好きならば、対象などはかかわらないはずです。今となっては、児童文学とファンタジィの間の血縁関係は無くなったと見るのが正当でしょう。

  しかし、児童文学と呼ばれるものの中に占めるファンタジィ系統の物語の比率が高いと言う事実は、注目してみる価値があります。ファンタジィを読む事は、つまり自分の内部に自分とは異質な世界が侵入してくる事ですから、この侵入者に対して当然ある程度の拒絶反応が生じます。上手く自分に同化出来れば問題はないのですが、作品と読者の組み合わせによっては、同化できないと言った事態も生じ得ます。ファンタジィを読もうとする人にとって、この場合に一番問題となるのは読み手側の同化(あるいは消化)能力ですが、それは常識などと言った抗体を持たない、ゆえにどんな現実離れした世界の設定をもそのまま受け入れる事の可能な子供達の方が、強いものを持っています。魔法使いやドラゴンなどを「馬鹿馬鹿しい」で片付けないで、それらの存在を仮定したらどうなるか。残念ながら、大人達の多くは馬鹿馬鹿しいで片付けてしまいます。が、子供達は違います。

 結局の所、児童文学にファンタジィの多い一番の理由は、好みよりは理解力であると僕は思っています。大人子供にかかわらず、ファンタジィはその世界を受け入れる事さえ出来れるならば、実に楽しいものです。問題は、受け入れられるか否か、です。

 何色にも染まり、何色をも染め上げる色、白。人間が産まれ落ちた時の色。ファンタジィと児童文学の間には、まだこの関係は残っているようです。
 
 

−ファンタジィと世界−

 僕がファンタジィのどこに最も魅かれるのかと言えば、やはり作品が横たわるこの世ならぬ世界そのもの、でしょう。さて、ここで問題となるのは、作者の頭の中にある世界と、読者の頭の中に出来た世界、あるいは同じ作品を読んだ読者同士の頭の中に出来た世界が同じでない事です。

 作者にとってみれば、折角苦労して創った世界ですから、出来るだけそのままの形で読み手に伝えたいと思うわけですが、一冊の本の中に含まれる情報量などタカが知れています。一冊の本から出来上がるのは、実は骨格だけのスケスケで、間の部分は読者が自分で埋めているのです。前の方で、ファンタジィの読者は自分で世界を創造しているような錯覚に落ち入ると言ったような事を書きましたが、本当はこれこそが錯覚で、実際読者は世界を創造しているのです。

 我々の読書会でもファンタジィを取り上げる事が時々あり、そんな時には普段は中々実現しない、同じ作品から創り上げた自分と他人の世界の比較が出来て非常に興味深いのですが、一人一人の持っているイメージが全く違っている事を、ついでに自分のイメージの貧困さを、思い知らされます。悔しいですが。

 どうしたらファンタジィと言う骨格に筋肉を付けてやる事が出来るか。どうしたら一つの作品から、豊かな世界を創り出す事が出来るのか。ファンタジィを読む喜びを知った人にとって、最大の難問です。しかし答えは明らかです。自分の中に世界を構築しようと思う時、我々の手にある唯一の手段は想像力です。こいつを如何に使いこなすか。こいつが縦横無尽に心の中を動き回る為に必要なものは。それは現実の世界から受けとる「知識」と「経験」です。ファンタジィの世界は確かに現実の世界とは「異なる」世界ですが、現実の世界と全く関係がないわけでもありません。それは、現実の世界の写影の一種であり、そして自分自身の投影なのです。ファンタジィから豊かな世界を創り出そうと思うならば、自分自身を豊かにすること。

 自分自身を豊かにする。口で言うだけなら簡単ですが、いざ実行するとなると・・・。ファンタジィを読む度に、その必要性は痛感しているのですが。しかし、僕なんかは、土台を作者からそっくりもらっていながら、肉付けに四苦八苦していると言うのに、ファンタジィの作者達は無から世界を創っているわけで、そのイマジネーションたるや。トールキンは神の天地創造になぞらえて「準創造」と呼んだのもうなずける気がします。けれども−だから−いつかは、僕もその技を使ってみたい。自分だけの世界に遊んでみたい、と思いつつ、ファンタジィの作品達を、そしてその世界達を、思っています。