魔 法
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 魔法とは人間の空想の産物であり、神話や物語の中にのみ登場するもの、と言うのが、今日我々が持つ魔法観であろう。この考え方は、確かに誤ったものではない。だがしかし、この考え方が全面的に正しいと言えるのだろうか。例え我々にとっては空想の産物であっても、魔法が生命を持っていた時代の人々にとっては、それは真実であったのではなかったろうか。


1.神話の時代

 世界各地には多くの神話が残されており、そこには様々な神々の様々な活躍が描かれている。世界各地に散在する民族のほとんど全てが自分達の神話と自分達の神々を持っていると言う事は、考えてみれば実に面白い事であるが、ここでは触れない。

 とにかく世界中には多くの神話があり、その中で神々は種々の奇蹟の業を示している。天地を創造し(天地創造は、何も聖書の専売特許ではない)、人間を創り、悪魔を平らげetc.。これらの奇蹟の中には、現在我々が「魔法」と言う概念で捉えているものとは明らかに異なるものも含まれてはいる。とは言え、魔法の源流は、神々がまだこの世界に留まっていた時代に、彼等が人間に披露してくれたものである事には、異存はあるまい。

 そして、神話が信じられていた時代には、神・そして魔法の存在は事実であった。何故なら、神話は宗教の一つの形であり、宗教を信ずる者にとっては神話もまた信ずるに足るものなのだから。そうして現代の我々にとって、歴史の教科書の記述が真実であるように、古代の人々にとっては神々による天地創造や、それに続く時代−神々がまだ地上に留まっていた、魔法に満ちた時代−は過去の出来事であり、時間軸を逆上ればそこに行けたはずである。決してそこは、空想の世界に浮かぶ異世界ではなかった。

 もちろんこの時代では、魔法は神々の手に属する神聖なものであり、人間の手で扱える様な代物ではなかった。せいぜい神々の手による魔法の道具、剣などを持つのが関の山。あとは神殿を造って祈りを捧げ、神々が自分達の願いをその力をもって叶えてもらう程度しか方法はなかった。が、それでも人々にとって魔法は、今の世に比べれば、ずっと身近かな存在であった。少なくともその存在は、神々によって、彼等の住む時空間連続体の中に保証されていたのだから。


2.中世ヨーロッパの魔法

 次に中世ヨーロッパを見てみたい。当時ヨーロッパを支配していたキリスト教は一神教であり、奇蹟は神にのみ属するものであった。しかし、それでもなお、多数の魔女達を輩出したこの時代は、注目に値する。

 ひと口にキリスト教がヨーロッパを席巻したと言っても、実際にその教義を完全に理解していたのは、ほんの一握りの人間だけであり、民衆や下級の聖職者には無知がはびこっていた。それゆえ表面上はキリスト教に屈服していたはずの各民族の宗教、及びその神話達は、人々の心の底で生き永らえ、時折表面に浮かんできては、キリスト教とのゆるやかな結合を繰り返した。今でも様々な伝承の中に、その結果を見ることが出来る。

 魔法についても、聖書の中のサタンと結合し、色々な変形を受けつつも、生き残る事が出来た。そして、今日我々が知るような魔法が誕生した。つまり、一つの呪文や一つの魔法薬に一つの効果が対応する、中々合理主義的な魔法である。神々の時代の、あの自由奔放な魔法は、ここに到ってその影をひそめる。だがそれは、魔女狩りの始まりでもあった。



3.魔女狩り

 中世ヨーロッパの一つの大きな特徴が「魔女」である。魔女が歴史の表面に登場するのは14世紀に入ってからで、13世紀以前には魔女裁判の記録はほとんどない。そして15世紀から17世紀前半にかけて、魔女狩りの猛威が全ヨーロッパを襲う。

 13世紀以前においては、キリスト教による締め付けはずいぶんとゆるいものであったようだ。特に辺境地域においては、異教の神の祭りなども結構盛大であったし、魔法使いと称する連中に対しても、単に気違い扱いするだけの事であった。

 それが何故、狂気の(今日の目で見れば、だが)魔女狩りに発展して行ったのだろうか。社会学者に言わせれば、それは近代へと覚醒に向かう社会に対して、保守勢力=教会が見せた最大級の抵抗と言う事になろう。本の少しでも異端なるものへ弾圧を加える事で、社会の恒常性を保とうとする動き。それが魔女狩りだったのだと。

 その辺については幾多の研究がなされているし、それをどうこう言うつもりはない。ただ、その側面を支えたのが「魔法」の存在であることだけは指摘しておきたい。魔法の存在と言う大前提がなければ、そもそも魔女裁判などは成立しないのだから。逆に言えば、魔女狩りの激しさは、それだけ魔法が信じられていた事を示しているとも言える。

 中世においても、魔法は人々にとって親しい存在であり続けた。当時の人々は、もし真夜中に窓から外を見る勇気さえあれば、運が良ければホウキに乗って飛ぶ魔女を見つける事が出来たのだった。



4.現代の魔法

 17世紀後半に入ると、さしもの魔女狩りも下火になり、近代から現代へと歴史が移るにつれ、魔法の活躍の場はどんどん狭められて行った。キリスト教の反発を受けつつも、キリスト教に寄生していた魔法は、急激な時代の転換点でキリスト教と共に時代に乗り遅れてしまった。あるいは、もう時代が魔法を受け入れるだけの素地を失ってしまったと言うのが正しいのかも知れない。ともかく時代の表面から、魔法は姿を消して行った。

 そして現代。最早魔法使い達の活躍の場は物語の中だけになってしまった。現実の世界の中には、魔法を受け入れる場は既にない。ただ空想の世界にその場を残すのみである。そしてそこでも、エブリディ・マジックの主人公達は、世間に隠れ、ごく少数の理解者(多くは子供達)の前でのみ、やっと魔法の使用が許されるていたらく。わずかに、この世ならぬ異世界に住む者達のみが、やっと自由に魔法を使えるのみ。かつては世界を支配していた魔法は、いまや作家の空想の中に押し込まれてしまった。



5.その未来

 が、考えてみれば、古代の神話も現代の物語も、空想の産物である事には変わりはない。ただ、受けとる人間の考え方が変わっただけだ。だから、物語の中に入ってしまって物語の世界を現実のものとし得る人ならば、魔法はなお、身近かな存在として映る。もちろん世の大多数の人々は、それが何の役に立つと言うだろう。だが魔法には、過去数千年に渡って人間を引き付けて来ただけの魅力がある。それを無にする事は出来まい。例えその支配する世界は変わっても、魔法を愛する人々によって、魔法は永遠に受け継がれてゆくであろう。


参考文献

「妖術」白水社・文庫クセジュ
「魔女とシャリヴァリ」新評論・アナール論文選