ラスベガスへの道  ・トップに戻る  ・一つ前に戻る

−第1章 1990年 4月1日午後−

 私は大変ヒマを持て余していた。本日付けで芝を研究する某バイオベンチャーに出向になったのはいいが、春の学会シーズンとあって、会社にほとんど人がいない(社長から事務員のおねいさんまで併せても、20人にも満たないせいもあるのだが)。「ま、みんな帰ってきたら何やってもらうか考えるから、今日はそこらにある本でも読んでてくれ」と言われ、居室に1人でほっとかれてしまった。いやはや。仕方なく、書架に並んでいる本を適当に取り出しては眺めていた。

 「おう、兄ちゃん、ヒマそうだな!」と声をかけてきたのはM氏である。「これから芝の調査に行くんだけど、良かったら一緒に行かねえか!?」。本を読むのも飽きたし、何より外は良い天気である。「行きます!」。そうして宮本氏の運転するワゴンが向かった先は… 中山競馬場であった。

 周囲に競馬をやる人間がいなかった事もあり、 競馬場に足を踏み入れるのはこれが初めてであった(ダービー位はTVで見たことはあったが)。平日の誰もいない競馬場というのは、ガランとしていて、実にのどかなものである。聞こえるものは、空でさえずるひばりのみ。休日にはこの空間が、馬券と罵声で満たされるなど、とても信じられない。幾多の名勝負が繰り広げられ、またこれからも繰り広げられるであろうターフは、春の日のまどろみの中であった。

 JRAには一つの夢があった。「ジャパンカップを緑の芝の上で」である。JCがわれる11月末には、芝は冬眠に入り葉は枯れてしまう。世界各国の優駿が集うJCを、何とか緑のターフの上で開催したい。そのために、この会社に出資もし、宮本氏の様な人材も送り込み、中山の馬場も研究用に貸していたのであった。

 そのおかげでこの会社は、GIウイークともなれば昼休みは社長以下勝馬の検討に没頭し、毎年12月には社を挙げて中山に繰り出すのであった。サラリーマンにとって、同僚との付き合いは重要である。この会社にあって競馬をやらない訳にはいかない、そう思った私は、次の週末、スポーツ新聞を片手に錦糸町の場外へと向かった。新聞の印を頼りに、とりあえず500円ばかりの馬券を買ってみる。ファンファーレが鳴り、馬たちがスタートする。やがて馬たちは四角を回り、最後の直線にはいった。とたんに周囲を怒号が飛び交う。「そのまま!」「差せ!!」「バカヤロ!!!」。こちらはただ、あっけにとられるのみ。賭け事の前に、人はその本性をあらわにする物だとしみじみ感じた。馬券の方は、見事にはずれた。

 今回、社内報編集部より、ラスベガス旅行記の原稿を仰せつかったが、遥か手前において、紙数がつきてしまった。私がベガスにたどり着くには、この後、アイネスフウジン、トウカイテイオー、ミホノブルボン、ウイニングチケット、ナリタブライアン、タヤスツヨシ、フサイチコンコルドの7頭が、ダービーのゴール板を通過しなければならない。道は遥かであるが、いつか機会があれば、この続きの物語をお聞かせしよう。


−第2章 夏の終わりの函館記念−

 北海道の夏は短い。お盆が終われば秋風が吹き始め、9月の中旬になれば大雪や知床の稜線が色づき始める。9月の末ともなれば、雪の便りも聞こえて来る。

1995年8月20日

 窓に叩き付ける雨音で目が覚めた。ここはイクサンダー大沼ユースホステル。函館から30km程離れた駒ヶ岳の麓。すぐ傍には、国定公園にも指定されている大沼・小沼が控える風光明媚な地である。天気が良ければ、すがすがしい朝の空気の中で深呼吸が出来るのだろうけれど、この天気では如何ともし難い。何故か函館と松山は、何度来ても天気が良かったためしがないな。ともあれ、朝食を食べて宿を出る。

 よっぽど車で行こうかと思ったけど、今日は日曜。函館市内で渋滞に巻き込まれるのは必至なので、函館本線で行くことにした。1時間の鈍行の旅。ローカル線の鈍行に揺られるのも、ずいぶん久しぶりの様な気がする。国鉄完乗を目指して日本中を駆け回ったのも、遠い昔のことになっちまった。窓を流れる水滴を眺めているうちに函館着。駅前から市電に乗り換え、ユラユラ揺られながら競馬場へ。

 中山を見慣れた目には、函館RCはずいぶんと小さく映った。JRAの競馬場を訪れるのは、これで8場目か。残っているのは新潟と小倉だな。小倉は2月に遠征する予定だったんだけど、直前に起こった阪神大震災おかげで計画中止の憂き目に遭った(注:大震災時は大阪在住)。ともあれ、旅のついでにあちらこちらの競馬場に立ち寄るのも良いもんだ。著名な観光地を回るだけが旅じゃないやね。ま、函館記念から逆算して出発日を決めるとは、我ながら酔狂ではあるけれど。

 

左:後にドバイに散る砂の女王ホクトベガ 右:函館記念 ゴール前の攻防

 とは言え、天気が良ければ芝生に寝転んで、津軽海峡を眺めながらビールを傾けることができる函館RCも、この天気でお客がみんなスタンドに逃げ込んでしまい、混んでるわ蒸し暑いわでもう大変。立ちっぱなしなので足はつかれるし、馬券も当たらないし…。それでも今日のメーンレース、函館記念が近づくにつれて雨も上がり、スタンドの外に出れるようになった。パドックにはレガシーワールド、ホクトベガの2頭のGT馬を筆頭に、マチカネタンホイザ、インターライナー等々重賞勝ち馬がズラリ。とてもローカルのGVとは思えない。あちこちでシャッター音が響く。イカ焼きを片手に、こちらも負けずに写真を撮る。

 レースは、有力馬が重馬場に足を取られて、結構穴があいた。同じ穴でも、2年前に釧路の場外で買ったオールカマーは当たったんだけどなあ。再び降り出した雨の中、満員のチンチン電車に揺られて函館駅に戻る。列車の時刻には間があるので、函館の洋食屋の老舗、五嶋軒でケーキとコーヒー。馬券が当たっていれば、夕食はここのフルコースだったのに。

 ユースに戻って夕食。そうして明日の計画を立てる。天気が良ければ駒ヶ岳に登りたい所だけれど、予報はあまり芳しくない。ユースがカナディアンカヌーを持っているので、午前中はこれで遊んで、午後はニセコあたりへ移動するかな。ともあれ、旅はまだ始まったばかり。風の向くまま気の向くままの一人旅。ゴールは一体どこにあるのだろうか。ラスベガスはまだ、遥か彼方。


−第3章 旅の終わり−

夢のような旅だった 遠い北の国の   
僕は旅の喜びと   そして辛さを知った
北の国の少女たちと 過ごした夢の刹那 
明日は君も他の街へ 僕も他の街へ   

こんな辛い旅なんか もういやだ    
旅を終わろう    汽車に乗ろう   
 
 

1995年9月15日

 旅の最後の朝は旭川のユースホステルで明けた。1ヶ月に亘る北の旅も今日でおしまい。今日の夜には北海道を去らなければならない。名残り惜しくはあるけれど、本当に良い旅だった。自由気ままに北の大地を駆け抜けてきた。函館記念を見、羊蹄山に登り、積丹で夕日に向かって泳ぎ、天売・焼尻をレンタサイクルで走り、礼文島の8時間コースを歩き、雌阿寒岳に登り、帯広競馬場を訪れ、再度礼文で8時間を歩き、紅葉の大雪に遊び...  多くの宿に泊まり、多くの旅人達と出会った。自分の人生の中で、最も光り輝く瞬間だったかも知れない。

 最後の宿に旭川ユースを選んだのは、「ばん馬」を見るため。と言うのはちょっとウソだな。ばん馬を見るだけなら、旭岳温泉の白樺山荘とか、美瑛のトロルドハウゲンとか、旭川近辺のお気に入りの宿に泊まっても良かったのだから。4日前に礼文島で別れた競馬好きの女の子と、ここ旭川ユースで再会を約していたから、と言うのが正直な所。

 朝食を食べ、旭川ユースを後にする。助手席には例の彼女(自称「たっちゃん」。ちなみに彼女は、僕を「はるくん」と呼んでいた)、は良いのだけれど、後部座席にもコバンザメが3匹ばかり座っている。思わず苦笑。もっともこの旅の間、一人で運転するのは退屈だと、乗りたいと言った同宿の奴は手当たり次第、トータル30人以上も乗っけて来たわけで、こうなるのも仕方はないか。

 天人峡温泉に寄って羽衣の滝を見た後、いよいよ旭川競馬場のばん馬へ。ばん馬(ばんえい競馬)は北海道だけで行われている競馬で、体重1トン近い大型馬(サラは500kg程度)が、600kg−1トンのそりを牽く。実に勇壮なものである。とは言え初めて見るものだし、どの馬が強いかなんてさっぱり分からない。よこしまな根性は捨ててビールと焼き鳥を買い込み、数百円の馬券を片手に競馬を見ることにする。レースは200mの距離を、2分間くらいかけて行われる。その横を、馬券を持った人間が同じスピードでゴールを目指す。馬は大変だろうけど、思わず力が入る。

 結局、何とか1レースは当てることが出来た。たっちゃんの方は、全レース外していじけていた。最終レースも終わり、競馬場を後にする。3人を最寄りの駅で降ろした後、たっちゃんと2人、美瑛のお気に入りの喫茶店でおしゃべり。これくらいの役得はあってもいいよね。赤いハイビスカスティを真紅に染めて、夕日が稜線に消えてゆく。旅の終わりの余韻を噛み締める。

 

左:旭川競馬場にて 右:美瑛の夕陽

 彼女を宿まで送り、日の暮れた道央道を旭川から苫小牧まで一人駆け抜けた。24時。汽笛が鳴り、フェリーがゆっくりと港を離れる。缶ビールを明け、豊かなる北の大地に乾杯。この旅が終われば、新しい街、新しい会社、新しい仕事が待っている。海の向こうには何があるのだろうか。暗黒の海は何も答えてくれない。波の音がこだまするだけ。ラスベガスはまだ、波涛の彼方。


−第4章  マカオでチョイヤー!!−

 マカオと言う地名は有名だが、それが何処にあるのか、即答できる人は少ないのではないか。マカオは香港の西約60km。中国大陸から突き出した小さな半島と、2つの島から成る。

 マカオの面積は島を合わせても渋谷区程しかない。人口は40万人。香港が、東京都の半分の面積と600万人の人口を抱えていることを考えれば、如何に小さいかお判りいただけると思う。この面積と人口では、大した産業が興せるはずもない。観光と言っても、車なら半日で隅から隅まで回れてしまう。最近はバリやプーケットの向こうを張ってリゾートホテルも建ててはいるが、マカオ唯一にして最大の産業といえば、やはりカジノである。香港から高速船で1時間の地の利もあり、週末は香港人でごった返している。そのためポルトガル領だが(99年中国に返還)、香港ドルがそのまま通用する。ただ、香港の空港から港までは結構あるので、日本からマカオだけに行くのであれば、台北乗り継ぎの方が便利かも知れない(成田からの直行便はない)。

 前置きが長くなった。さて、マカオのカジノにご案内しよう。マカオには10軒程のカジノがあるが、経営は全部同じである。初心者は、やはり一番大きいリズボアホテルのカジノがよろしいだろう。カジノ内は撮影禁止。また、女性の小さなバック以外は持ち込めない。荷物のある人は、クロークに預ける。カジノ内はスリが多いので、できればポケットにボタンのついた服がいい。

 マカオのカジノは、一般にミニマム(最低掛け金)が高い。これは、浮浪者をシャットアウトするためと言う。そして、上に行くほどミニマムが高くなる。地下1階は200HKドル(1HKドル=約15円)。1階は5百ドル。さらに上の階になれば千ドル。1万ドルとなって行く。もちろん、こうしたフロアーになれば美女が傍らに侍ってくれる訳だが、貧乏人には関係無い。ともあれ、まずは地下に降りよう。

 丸いフロアーの周囲にはスロットマシーンが並んでいる。1回2HKドルだし、機械相手で気楽なのだが、マカオのスロットははっきり言って出ない。勇気を出して中に進もう。マカオのカジノで人気があるのは大小とバカラである。ここではバカラについて解説しよう。

 バカラはちょっと変わったゲームで、客同士が2つのチームに分かれて対戦する。客は2つのチームのどちらかに掛け、チームで一番掛け金の高い人がキャプテンになる。キャプテンにはトランプが2枚、裏向きに配られる。キャプテンはこれをめくり、2枚の数字の合計する。合計が小さい場合は、もう1枚だけめくることが出来る。そうして数字の合計の、1の桁の大きい方が勝ちである(例えば、合計が12と8なら、12=2なので、8の勝ち)。引き分けなら、カジノの総取りになる。

 ここで重要なのは、もしあなたがキャプテンになったら、配られたカードをヒョイとめくったりしてはいけない、と言うことである。もし負けようものなら、無数のパンチが飛んでくるであろう。お前の気合が足らないから負けた、と。中国人は賭け事において、気合を何よりも重んじる。正しいカードのめくり方は、全身の気を集中し、1枚20秒くらいかけて、ゆっくりゆっくりめくるのである。この間、周囲の連中からは、「チョイヤー!!(目よ消えろ)」「ティンガー!!(目よ出ろ)」と、掛け声と言うよりは奇声が浴びせ掛けられる。アジア特有の、熱くねちっこい空気が台の周囲を覆う。そうして気が付けば、あなたもそうした声を発しているだろう。ここまでくれば、ラスベガスはもうすぐそこである。


−第5章 ベガスと言う名の遊園地−

 ラスベガスと言う言葉から何を連想するだろうか。「カジノの都」「ギャンブラーの聖地」。確かに間違いではないが、少なくとも90年代のラスベガスはそれだけではない。

 場が食うから「バクチ」。全てのギャンブルは、場(胴元)が有利なようにルールができている。たとえイカサマなどしなくても、胴元は儲かる仕組みになっているのである。とすればカジノ側が考えるべきはただひとつ。いかに多くの人を集め、いかに多くの掛け金を張らせるか、である。

 90年代のラスベガスは、これを実践した。まず、豪華で巨大なホテルを次々建てた(注:ホテルの1Fがカジノになっている)。現在、世界の巨大ホテル・トップ10の内、9つがラスベガスにある。ホテル建設は現在も続いており、遠からずトップ15全てをラスベガスが占めるであろう。しかも、ラスベガスは宿泊費やレストランが安い。敷居を低くして沢山の人に来てもらい、その分カジノで遊んでもらおうと言う戦略である。そしてお客を増やすために、ギャンブラーだけでなく家族連れで遊べる施設を作った。テーマパークや巨大なショッピングモール、ホテルの周囲を駆け回るジェットコースターに家族で楽しめる愉快なショウ。大きなコンベンションホールも作って、学会や展示会にも対応できるようにした。もちろん、ヘビー級タイトルマッチも立派な集客アイテムである。結婚式もできるし、ゴルフ場も近い。グランドキャニオンもセスナで1時間だ。今やラスベガスは、ギャンブラーだけではなく、誰もが楽しめる巨大な遊園地と化している。

 しかも、ディズニーランドのように調和の取れた遊園地ではなく、各ホテルがバラバラにアミューズメント化を図ったため、良く言えばビックリ箱的な、悪く言えば無秩序な混乱が、今のラスベガスを支配している。実物大のピラミッドとスフィンクスが鎮座する「ルクソール」、1/3サイズの摩天楼が立ち並ぶ「ニューヨーク・ニューヨーク」、ホテルの前で海賊船が砲撃戦を繰り広げる「トレジャー・アイランド」、200mのタワーが控える「ストラトスフィラ」。遠からず凱旋門とエッフェル塔も出現するはずだ。初めてラスベガスを訪れた人は、あまりの無節操さに絶句するであろう。最近は遊ぶ所が多すぎて、ギャンブルをしているヒマが無いと言う喜劇的な状況まで生じている。

 しかし、こうした表面的なものに騙されてはいけない。ご承知のように、ラスベガスは砂漠の中に忽然と出現した蜃気楼である。この街は、決して何も生み出さない。人々は、ただ楽しみ消費するために、そして自らの欲望を満たすためにベガスに集まる。ギャンブラーたるもの、一生に一度はこの聖地に巡礼し、人間の本質を、神が人間をいかに作りたもうたかを自身の目で確かめる必要がある。フットボール場よりも巨大なカジノの片隅で、残された最後のチップを張る時、ふやけた日常の中で忘れかけていた「生」を実感できるはずだ。

 この物語も次号はいよいよ最終回。正直な話、まさかラスベガスにたどり着けるとは思わなかった。社内報編集部の寛大な処置に感謝する次第である。


−最終章 −




 飛行機は高度を下げ、ラスベガスの待つマッカラン国際空港に降り立った。
 

 ラスベガスは、一人一人の心の中にある。ここから先は、それぞれの心の赴くままに…
 

−了−